処方箋を出さない診療所 #4(出張版)
「うあーー!!」
「こんばんは、他の患者さんや医師の迷惑になるので叫ぶのはご遠慮ください。今日はどうなさいましたか」
「すみません。さすがに外で叫ぶと不審者なので」
「部屋の中でも、他人の前で叫べば不審者ですよ」
「かかりつけの医者って他人なんですか?」
「この世の中に、自分以外の他人でない人間はいません」
「それもそうですね。そういえば先生、なんだかいつもと診察室が違いませんか」
「そうでしょうか」
「あっわかった。花瓶の色が違うんだ」
「花瓶の色は毎回違うんですよ」
「えっそんな。先生、繊細なんですね」
「季節の機微がわかると言ってください」
「人間の機微はわからないのに?」
「根に持っていますか」
「根に持っています」
「そうですか。続けてください」
「えっとなんの話だっけ。ああ、診察室がいつもと違うって話か」
「そうですね。出張版、ということにしておいてください」
「なるほど。この診療所、出張診療なんてやってくれるんですね」
「一応病院ですので、求めには応じます」
「テロリストと対峙する警察ですか」
「善良な医者ですよ。加えてその場合、求めに応じてはいけません」
「わかってますけど!! 雰囲気です!!」
「そうですか」
「今ちょっと、スマホを海に浸そう作戦に出ていて」
「奇怪な作戦ですね」
「本当はスマホを海に投げ捨てるぐらいの気持ちで、デジタルデトックスをしたいなと思ったんですけど。さすがに投げ捨ててしまうと色々支障が……と妥協した結果、ぷち投げ捨てにしたんです。なので、投げるんじゃなくてちょっと投げるぐらいなら、浸すとかかな、と……」
「なるほど」
「わかってますよ、『投げ捨てる』よりも『浸す』方が狂気的ですよね。わかってるんです」
「ここへ来ることはセーフなんですか?」
「メタネタですね。嫌いじゃないです。ここへはスマホじゃなくてパソコンを使って来てるのでセーフなんです」
「メタネタ? スマホのナビは要らないんですかという意味だったんですが?」
「あっなんか悔しい! 負けた気がする! パソコンで地図を見てから来ています!」
「道を覚えようという気はないんですね」
「ないです」
「それで、今日はどうされましたか」
1
あれ、先生、今日は茶々を入れたり失礼なことを挟んだりはもうしないんですか?
そうですか。
なんだかやりにくいですが、とりあえず話します。
何があったか、ですよね。
ええと、簡単に言うと、ずっと応援していた人を、応援できなくなるかもしれない事情ができました。
抽象的?
いや、そうなんですよね、どう言ったらいいのかわからないことが、まだ多くて……
言語で具体化、できないわけじゃないんですけど。もう、それなりに日も経っているので。
でも、まだ元気が出ていなくて、どうすればいいのかわからないって中から抜け出せていない以上、わざわざ自分で自分を苦しめに行く必要もないかなあ、という……いや、話せないのに診てほしい、っていうのもわけのわからない話だとは思うんですが。
自分で自分の面倒を見る一歩ができてる? それは、……ありがとうございます。
え、先生、今日なんか優しくないですか? 朝ごはん抜きました? 大丈夫です?
あ、朝も昼もおやつも食べてるんですね。それはよかったです。
はい、ちょっと気味は悪いですけど続けますね。
たぶん、その、応援できなくなるかもしれないことになった事柄自体、がどうこうってわけじゃなくて……自分にとって、尊敬していた相手を好きだけではいられなくなってしまった、ということが問題なんだと思います。いや、それ自体には納得しているから、この言い方も正確じゃないのかな……
とりあえず、色々話してみようと思います。
よろしくお願いします、先生。
2
まず、報道を見た時の話なんですけど。
あ、はい、起こったことっていうのは、報道です。
え、その時の状況を語るのは悪趣味じゃないかって?
そうかなとも思うんですけど、なんか、こういうリアルな事情を残しておくのも大事かなあって。
いや、こういうことがあった時に「かつての人々はどうしていたんだろう」なんて検索する強ハートの持ち主はあまりいなさそうですけど、少なくとも自分は、「どうしていいんだろう」「ほかの人はどうしているんだろう」というのは気になったんですよね。
それで、その日の状況なんですけど。体調が悪くて、一日横になってたんです。
あ、健康です。あんまりここで世間的な事象はさみたくないんですけど……ああそうですメタネタです、え、先生、やっぱり意味わかってましたよね?
まあいいや。 はい、俗にいう副作用というやつで。なので、健康ではあるんですけど、その日だけは不健康でした。
普段、休みの日に寝る習慣はないんですけど――立派とかじゃなくて、ただそういう習慣で育ってまして――その日は、一日のほとんどをベッド上で過ごすことしかできなくて。気持ち的な不快感がすごかったです、体がしんどくて。
で、報道を知って。
割と冷静でした。うわーーーーーーマジかーーーーーーって、とりあえず一回、床に額をつけました。
そのあと、すぐしたことがありました。
記事は見ませんでした。調べることもしませんでした。
その前に、全てのSNSアカウントに、鍵をかけたんです。あと、レポなどの記事を、一度非公開にしました。
名前、出してしまってたんです。フルネームで。今時みんな、気になる人のニュースが出たら、まず名前を検索しますよね。心配でも、興味でも、敵意でも。
イベントのレポなどを書いていたんです。その時は宣伝になればと思って、フルネームをわざと出していたんですが、こんなことになるとはなあ、って感じです。
検索されて、見つかって、自分の文章が見られるのが怖かったのもあると思います。
でも、一番嫌だったのは。自分の書いたものが、こんなファンがいるんだと、その人を攻撃したり悪意ある拡散に利用されることでした。
一ファンの書いた記事が、どれだけ検索で見つかるものなのかはわかりません。
内容も、もしご本人に見られることがあっても困らないように、と心がけて書いていましたが、どれだけプラスの内容だったとしても、その報道が嘘ではない以上、渦中においては、プラスを見たからって印象が変わることはありませんよね。
こういう時の、顔の見えない大衆は怖い。どこに槍玉を見出すかわからないでしょう。
自己保身、と言われればそれまでなんですが。
ファンであるという面で、絶対ご本人に迷惑をかけるようなことにはなりたくなかったんです。今自分にできることは、情報を出さない、ことだと思いました。
ほんと、世の人がこういう時、どうするのかはわからなかったんですけど……
わたしは割と早い段階で、この件について納得してしまってたんです。
3
色んな方から、色んな言葉をかけてもらいました。
ストレートだったり、とても気遣ってくれた言葉だったり、気遣ってくれたからこそ、あえて言葉という手段を選ばなかったり。
そういう、「人がどうするか」みたいな選択の部分も、おもしろいなって感じていたんですけど、今回はさすがに脱線しすぎるので省略しますね。
あ、先生はそっちの方が興味を示しそうですよね。
それで、そうやってかけてもらった言葉の中に、「失恋みたいな気持ちになるよね」っていうのがあって。
最初は、それは違う気がする、って率直に思ったんです。
でも考えてみたら、ちょっと違うけれど否定しきれないな、って。それはなんでなんだろう、って考えた時に。
そもそもわたしは、その人に向ける感情は恋ではないと思っていて、今でもそれは変わらないんですけど。友達を好きだと思う感覚や、その人に向ける感覚が、恋に「近い」とは思っていました。絶対に違うけれど近いのかもしれないな、という感じです。
でも、今回のことがあって、逆だったんじゃないかな、って。
友情や尊敬する人への感情が恋に似てるんじゃなくて、きっと自分にとっては恋がそれらに似ているんです。
その人の幸せを願うと涙が出てきたり、でもその幸せを一番に叶えられるのが自分じゃなかったことが悔しかったり。どうしようもなく憧れて、自分の努力の足りなさを痛感して悔しくて泣いたり。
「悔し泣きをすること自体が、恋みたい」? あはは、そうかもしれません。
恋は、そういうものだったらいいなって、思ってるんだと思います。
それぐらい自分に影響があって、心が動くってことです。
その人への感情は、恋ではなかったと思っていますが。
自分らしくないことをこんな風にできるのだな、こんな自分になれるのだなという意味では、確かに恋でした。
夢みたいだったし、魔法にかかったような時間でした。
人に執着できないって言われ続けてた自分が、はじめて人間に執着できた、って思いました。
ひょっとしたら、自分らしくなかったのかも、とも思いますが、それはあくまで「それまでの」自分らしさと比較したときで。自分らしさなんて常に移り変わっていくもので、本物がどれかなんてわかりません。
その人を好きになる前は、あんまり、現実で生きている人には興味がありませんでした。何かを追いかけた経験もなくて。文字とか、言葉とか、音楽とか、物語というものが好きでした。
スマホを海に浸そう作戦に出て、久しぶりに、そういうものに触れて。やっぱり、自分のいる世界はこっちだったのかもしれないって思ったんです。
でも、同時にそう思うことに、苦しさもありました。もう、あの楽しさには戻れないのかなあって、考えて。
その人を好きになったおかげで、全然知らなかった世界に行けました。
健康になれたし、フットワークも軽くなったし、一人で何かをすることに対して自由になれました。
推しがいて、推しの出る舞台やイベントのためにあれこれ行ける自分のことが、好きでした。
考えてみたら、恋に見返りを求めないたちなら、これが恋でも問題ないというか、区別なんて付かないんだなって。わたしにとっては、同じことだったんです。
だから、恋という感情を失ったという意味で、今は確かに失恋なんですよねえ。
こんな中で、誕生日を迎えたんですけど。正直、祝い事なんて気分じゃねえよ、って気分でした。
誰に理解されなくてもいい、でもそれぐらい、大きなことでした。
失恋って、相手を失うことじゃなくて、自分の中からその感情が失われてしまうことをそう呼ぶんだなって、ようやくわかりました。自分の一部がなくなってしまうから、こんなに悲しいし、ぽっかりするんだなあって。
4
夢を見ているみたいだったんです。
うーん、実はわたしも考えたんですよね。「夢を見ていた」、という言葉の意味を。
寝る時の、夢みたいだ、の方だと思ってました。
悪夢だったらいいのにな、って言う時とおんなじ感覚の。現実感のなさ、というか。
でも、違ったみたいです。
理想を、キラキラしたものと時間を一緒に確かに共有していたと。それが、提供者と消費者であれ、その時だけは同じく場所にいたと。
あるいは、この人が夢を叶える姿を、この人に影響を受けて自分も頑張る中で、見届けたいと。
そういう意味の、夢なのかなって。本当は、もっと適切な言葉があるのかもしれないです。
自分が思っていたより、ずっと、ずっと普通の人だと、知って衝撃を受けたタイミングでした。
見返りを欲しがっていたつもりはありませんが、関係性としては良好だったんじゃないかなと思うんです。たくさんのファンと、ご本人との。
消費者になりたくなかった。一人の人間として向き合いたかった。
でも限界があるんですよね。相手は芸能人で、その人の全部を知っているわけじゃない。そこが、たとえば友達とは、全然違うところで。
応援していることが楽しいというよりも、影響を受けて、自分の色んな刺激になるのが楽しかったんです。
推しだから、で許せた部分は、きっといっぱいありました。でもしょうがないんです、自分の心はその人にもらったものでいっぱいだったし、動いてしまったのだから。
5
以前、担降りについて、「スタンプカードを貯めるのが早すぎたんだ」って表現している人がいたんですよね。
あ、担降りってわかりますか? 「経験はないけど事象としては知ってる」……天気か。まあいいや。
それでその、推しを降りてしまう、応援するのをやめてしまうということについて、スタンプカードにたとえている人がいて。
応援している、という状態がカードで、スタンプは好きの感情です。
その人が言っていたのは、現実の事柄と、気持ちの速度が食い違っていると、現実よりも早く、スタンプをいっぱい押せてしまう、ってことでした。
その話を読んだ時は、なるほど興味深いなあ、程度にしか考えていなかったんですが。
今回の自分の感情にあてはめてみてようやく、しっくりきました。わたし、その時ちょうど、貯め切ったカードをもっていたんです。
はじめてこの診療所にかかった時。それが、その貯めきったタイミングでした。その特典で、自分が頑張りたいと思えるような、刺激や考える時間をもらって。立ち止まって、考えて。
実は前に一度、応援するのをやめかけたことがあって。
たぶんあの時も、スタンプカードを貯めきったタイミングでした。
結局、またやっぱりこの人はすごいと思う機会があって、新しいスタンプカードをもらいました。でも少し一生懸命になりすぎるのをやめて、少し応援の仕方に変化があったんです。
今回も、その時みたいに、また次の段階にすすむんだろうなって。立ち止まるし、少し考え方も変わるかもしれないけど、変わらず応援していきたいなって。
新しいスタンプカードを、もらうつもりでいました。だから、ちょっと戸惑っています。
ちょうどいい節目と言えば、節目だったのかもしれません。
いつまでもこうできるわけじゃない、とは思ってたんですよね。
6
なんていうんだろうな……人のことばかりを考えて生きること? 自分の生き方に向き合うことが、ついつい後回しになってしまうような。
ああ、もちろん、そう生きようと決めたのは自分です。それを、応援している対象に転嫁することがあったら、絶対に間違いです。
それで。この間、スタンプカードを貯めきった時に、自分の人生について、やりたいことについて、夢について、どう生きていくかについてとか、考えることが、いっぱいあるなって思いました。
どう生きていくかとは何か、ですか。うーん……
実際わたしが、恋をするかは別として。
あ、また、恋の話です。しょうがないでしょう、わたしはそれを、人間として必要で、大事なことだと思っているんです。人を必要とすること、そのために努力したり変われたりすること。必要とされたいと、願えること。誰かと生きたいと思えることが、正しくて善い人間の行いな気がして。それだけじゃないって、言う人もいるとは思うんですけど。
それで、最近、ちょっと考えていたんです。こんなすごい人を尊敬したまま、他の人を好きになるなんて無理だ、って。
繰り返しになりますけど、私の中で、恋も尊敬も友情も、そんなに違いがありません。だから、とりあえずそういうごちゃごちゃの中で一番、すごいと感じている存在がいて、たぶん自分の思う恋って、そういう中での一番に位置付けないといけないなって考えていたので。そこを、上回らないといけなかったんです。
でも、そうやって尊敬した人も普通の人だとわかって、めちゃくちゃ言い方えらそうですけど、自分の中でのハードルが下がった気がします。ほんとに色々課題はあると思うんですけど、その課題は思ったよりは低い山かもしれない、って。
本当に偉そうですね、何様ですか、ですか。
わたし様です。
左様ですか、って、先生、それあんまりおもしろくないです。
恋がしたいな、って思います。
それは、やっぱり友達を大事に思う気持ちとの区別がついていない自分なりに、自分の答えがほしいんです。自分の持つ感情の答えが知りたいです。
結果、やっぱり恋じゃなくてもいいんです。世間の人と同じようにはできないと、確信する事実があってもいいんです。それでも、答えが知りたい。
いや、明日には、そうは言っても自分にはなあ……とか思い始めるかもしれないんですけど。
今はそう、思ってます。
7
今も好きですし、お芝居を見ることも好きだと思うんです。推しの恋愛自体に反対は全くないですし。
でも、一度事が起こってしまって、多くの人が怒ったり、戸惑ったり、悲しんでいるのを見てきたので。なかったことにはできないですし、自分自身、その事実があったということを抜きにしてその人に向き合うことはできません。
さっき、「早い段階で納得してしまってた」と言ったんですけど。そのせいで、かえって難しい感じになってました。
納得しているから、どうすることもできない。怒ることも、悲しむことも、擁護することも、糾弾することも。応援し続けますとも、もうやめますとも、言えないでいるままでした。
まだ今は、前のようにすんなり「推しです」とは言えません。だから、尊敬している人、と呼ぶことにしようと思います。まあ、尊敬できない部分もあるんですけど。
シビア? ふふ、そうですね。
もう、ただの推しじゃないですから。今までだってそれは、わかってはいたんですけど。自分を、甘やかすのはやめるんです。
え、正直なところ、ですか?
うーん……ずっと正直なところで話してるんですけど。
でも、わがままも、少し言っていいのなら。
またあの楽しみ方をしたい、って、泣きそうに思うことはあります。
その人や、誰かに何かをしてほしいわけじゃないんです。ただ、今は、どう何を楽しんで生きていけばいいか、わからなくなっていて。
電車に乗って、あちこちに行って、会いに行くワクワクを体験したい。物を買ったり、決めたり、そういうのも全部基準になってて、本当に楽しかったんです。モチーフのものを探したりだとか、食べ物もそうやって決めたりだとか。
こういう時はこう考えるかな、とか、この人が頑張っているから絶対に自分も頑張らなきゃって。ファンとして絶対に恥ずかしくない自分でいよう、だから頑張りたいことを諦めないようにしようって。
色んなところで、依存してたんだと思います。
自分の人生を生きるために。
それがなくなると、こうも、どうしていいかわからなくなるものなんだなあって、本当に困ってます。
それがなくても生きていた時代はあったはずで、でも、6年、そうやって生きてきていたから。
徐々にその人のことを知って、徐々に応援したい気持ちも強めていって、そうやって気持ちを積み上げて生きてきた数年だったので。
悲しいや寂しいや苦しいを、ぶつけたいわけじゃありません。どこにぶつけるものでもないとわかっているし、わかっているから、手の中に入れて握りしめたままで。
せめて泣いたりだとか。あるいは、いっそ何もできなくなるほど落ち込むとか。そういうこともできずに、ただ、日常生活を送れている自分のことが、よくわからなくなってきます。
前を向こうとする言葉は、いくらでも吐けます。
何もなくなるわけじゃない。
ましてや、その人がいなくなったわけでもない。
嫌いになったわけでもない。納得はできている。
もう一度応援しようと思えば、またできる。
それでも、簡単にそうできないから、難しいんです。
難しいけど、それこそ、じっとそう言っているままでは、その人に顔向けできないから。
こうやって話すことでも、それが先に進む一歩になるかもしれないなら、みっともない言葉でも、やってやろうって思いました。
先生、聞いてくださって、ありがとうございました。
その人を応援することは、ファンでいることは、
楽しかったです。本当に楽しかったです。
勇気が出れば、一通、お手紙を書きたいなと思います。余計なことは何も書きません。ただ、その人がきっかけでチャレンジできたことがあって。
その話だけ、できれば伝えたいなって。
すごく、楽しかったので。
いつも自分が何かのきっかけになることを、望んでくれる人でした。
夢が終わって、魔法はとけて、今は自分の感情の一部を、失ってしまったかもしれないけれど。
こういうことがあった時、「裏切られた」と感じることもあるのだろう。でも、自分は裏切られたとは思わなかった。
変わらず幸せを願って涙が出る気持ちはあって、でも全部が同じじゃない。
過去を否定されたわけでも、楽しかった時間に意味がなくなってしまったわけでもない。
出会った人、影響を受けたからこそ出来たこと、知れたこと、やってみようと思えたもの、好きになれたもの。全部自分の決断で自分のやりたいことだったと、胸を張って言えるから。
一人の人間として向き合いたかったからこそ、皮肉なことに、あるいは幸運なことに、わたしが憧れて尊敬してやまない部分はそのままに、何も裏切られずに今回の件を理解することができる。
変わらず好きです。彼の気持ちを否定はしません。世間に対し、なんで自由に人を好きになってはいけないんだろうという漠然とした疑問もあります。それは悪いことだったんでしょうか、という気持ちもあります。
その人間性は、憧れのままです。
でも、たとえばその行動の注意点を、浅はかだと言われてもかばいきれない部分を、わたしは持つことはない自覚とかいうやつを、思わないわけではありません。戸惑い、悲しんで、怒った同じファンの人を見て、心が痛みました。応援したいけれど、「応援したい」と盲目に言うことは自分の心にとっては正しくありません。
あなたを変わらず尊敬しています。何度も救われました。あなたが舞台上で一生懸命に頑張っている姿が見たくて、そのために仕事を頑張れました。あなたの演じた役に救われました。本を作ったり、レポを書いたり、一人旅に行ったり。そのおかげで交流できた、名前も知らないたくさんの人たちがいました。
舞台上で泣くあなたの姿に、自分の夢を思い出させられて泣きました。苦しみながらも生きる勇気をもらいました。
あなたの舞台を、また観に行くことがあるかも知れません。(というか、今のところ三月に観に行く予定があるので……)そのために遠征することがあるかもしれません。大きな作品が決まればきっと喜ぶし、映像作品が決まれば自慢すると思います。
一か月後には、また元のように戻ってるかも。やっぱりそれでも推しですと、追いかけているかもしれません。自分のことは、全然わかりません。
でも、今は一度、「ありがとう」と言いたいです。
素敵な時間をくれてありがとう、楽しくてキラキラした時間をありがとう、あなたに出会わなければ知らなかったたくさんの感情や人と巡り合わせてくれてありがとう。夢を思い出させてくれてありがとう。
そして、どんなことがあっても応援すると言えるファンでなくてごめんなさい。それでも、あなたの幸せを願っています。
一度、ここでスタンプカードをいっぱいにしたいと思います。またあなたを応援することがあるとしたら、それはまた、新しいスタンプカードです。
しばらくはずっと苦しいままだと思います。実は、推しがいない社会人生活というのを、送っていたことがありません。仕事でめげそうな時、どうしたらいいんでしょう。何を楽しみにして、日々を頑張ればいいでしょう。
はじめて好きになった人でした。はじめて執着できた人でした。
相手から感情を返してもらうことを期待しない、することができない自分にとって、応援が力ですと言ってもらえるだけでめいっぱい好きでいてもいい、そんな都合の良すぎる恋の相手でした。
たくさんの、色んな感情を、きっかけを思い出を、出会いを、くれました。本当に、ありがとう。
あ、なんか急に手紙みたいになっちゃいましたね。先生相手に恥ずかしいなあ……
「正直なところ」、聞かれてみたら、意外といっぱいあったなあって。最後にわっとぶちまけちゃいました。
たくさん考えた時は、この場所を一人で使うようにしてるんですけど。
今日は何となく、先生に、聞いてもらいたいなと思ったので。
出張してくださって、ありがとうございました。
**
今日の先生は、余計な言葉をほとんどはなさなかった。
今までとは違った診察内容だと、察してくれたのかもしれない。
穏やかな目で、「はい」と相づちを打ってくれていた。
お会計を待ちながら、天井を見上げた。
領収書をもらい、診療所を出る。
「あれどうしような~~…………」
家のパソコンに入っている、二十万字ほどの、小説の箱書きの山を思い出す。
あれをまとめて、情報をまとめて、一本の物語に仕上げるなんて可能なんだろうか?
今の自分の頭の中には、4人分の性格や思考が埋まっている。
人を避けるのに人を放っておけない魔法使いと、執着とアイデンティティの確立に悩む少年と、満たされない感情の飢えに苦しむ少年と、自分の本性から目をそらし続ける少年と。彼らは自由に生きて、それぞれにもがいている。まるで、多重人格者の気分だ。
また頭の中で始まった会議をラジオ代わりに聞き流しながら、家路についた。
8
あの後に、ご本人からのコメントが出た時。
言葉が足りないという非難があったと聞いた。
けれどわたしは、「この人らしいなあ」と思った。
誠実で正直で、嘘は言わない。弁明もしない。だから結果、言葉は少なくなる。
言葉を尽くすのが得意ではないことを、――冷たい言い方かもしれないけれど、今の自分の言葉では状況をよくすることができないこともわかっている。
この人らしい。
贔屓目かもしれないけれど、きっと、追ってきたひとにしかわからないかもしれない。世の中の大半の人は、納得しないかもしれない。
でもわたしには、彼らしいという意味で、その人の誠実さを信じたうえで、その言葉を聞いた。
わからないけれど、ファンの人にも、同じように思った人はいたんじゃないかと信じている。
また、そのちょうど1か月後。
その人からの、メッセージカードが届いた。
元々、企画されていたものだった。この一年を通して行われていた周年企画の、その最後。
ファンが一人ひとりリクエストした内容に対し、ご本人が直筆でメッセージを書いてくれるというものだった。企画を聞いた時は、そんなとんでもないことがあってもいいものか、と恐縮しきりにしきっていたのだが。
リクエストは、その2か月ほど前にしていた。
わたしがお願いした内容は、ざっくり言うと「夢があるけれど、自分を信じるにはどうしたらいいか」というもの。
恐れ多く思いつつも、この人なら、どんなアドバイスをくれるんだろうと期待していた。
リクエストを送ったときは、まさかこんなことになるとは思っていなくて。他の人は、どんな気持ちでそのカードを待つのだろうと思っていた。
自分も、どんな気持ちでそれを読めばいいのだろうと、思っていたのだけれど。
届いたら、我慢できずに開けた。
そこに書かれた直筆のメッセージを、宛名を、ひととおり読んで。
泣いてしまった。笑ってしまった。泣き笑いで、安心、安堵、なんだかほっとしたような気持ちになった。
笑ってしまったのは、その人が書いてくれた名前が、あだ名で呼ばれることの多い自分にとって、あまりに聞きなじみのないものだったのもあって。そこに拍子抜けしたのもある。
でも。
やっぱり、自分の尊敬した人だった。何一つ、自分の心は変わっていない。
嘘は言わない。過剰な励ましもない。ただ誠実に、自分の考えたことを、知っていることを、身をもって体験したことを書いてくれていた。
この人にしか言えない。そして、わたし以外に向けられる言葉じゃない。
わたしは自分の夢がどんなものか、そのリクエストの中では話していなかったが、それでも、「わたしの言葉」に対するその人の答えなのは明らかだった。
これでも一応、文字が武器なもので。
人の手で書いた文字が適当なものかどうか、見極められないほど馬鹿ではない。
たぶん、友達にも家族にも、誰にも言ってもらえることはない言葉だった。
でも、この言葉を信じていいのなら、わたしはずっと頑張り続けられる。叶う叶わないじゃなく、わたしがやりたいと思うなら、頑張り続けることができる。
これまで、たった数年だけれど、この人を見ていたからわかる、信じていい本物の言葉だった。
思い出す。もう4か月前のことだ。
ちょうど、記事では1つ前の出来事。
バタバタしながら大阪東京間を移動したことも、急に貧血を起こして新幹線の中で倒れて、飛行石を首から下げた親切なお姉さんに助けられたことも。
苦しくなるぐらい涙をこらえたことも。
職場の畳の上で、どうしようもなく転がっていたいぐさの匂いを。
どうしても、全てに意味を見出せてしまう。
それぐらい、自分の全てで、全力で生きる楽しさがそこに詰まっていた。
自分の人生に向き合うきっかけをくれたことですら、この人のおかげだと思ってしまう。
たぶん、またファンになれると思う。
だってやっぱり、わたしはこの人を尊敬している。憧れている。ダメなところを認めたって、人間完璧な人なんていないのだ。推しだから、多少甘すぎるのかもしれないけれど。
でも、あなただけに夢中なままでは、自分の人生はきっと送れないと気づいたから。もらった、夢を目指して足掻く力を、立ち上がる支えを、良かったねってガラスケースの中で終わりにさせたくないから。
他の人のようには、いかないかもしれない。
それでも今、少しでもやってみたいという気持ちがあるなら。
胸が痛い。魂を削るように書いて、涙を吐くように彼らの想いや言葉を綴った物語が、まだわたしの中で続いている。
たとえ結果、いいものが書けなくても、嫉妬や羨望に苦しめられる毎日でも、上手く言葉に変えられなくても――自分の中には、言葉がある。
夢の形は変わっていくかもしれないけど、やらなければ絵に書いた餅のままだ。
だから今までのようには、きっと追いかけません。
それでも、応援しています。
あなたにもらったものを、絶対に、無駄にはしません。
わたしもわたしの人生を、頑張ります。
※この記事は、フィクションとエッセイをとりまぜて書いています。
もしあなたが、誰かの助けが必要だと思ったときは、大事な人に話しましょう。