ハロー、ヒーロー

生存と感情のきろく場所。

推しているひとから「LGBT」という単語を聞いた話――『Reading♥Stage 百合と薔薇』

 推しているひとの口から、LGBTという単語を聞くとは思わなかった。
 そして、おそろしいと泣きながら、自分の気持ちのかたちまで考えてしまうとは、思わなかった。

 

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『Reading Stage 百合と薔薇』、6/16公演に行ってきました。
 推しているひとが出ているから、内容に興味があるから。足を運んだ理由は単純で、いつもと大して変わらなかった。そうして幕が明けた作品が、こんなにおぞましく自分を泣かせるとは、こんなにも考えさせられるとは、これっぽっちも、想定していなかった。幸せの話と、ひとを好きになる気持ちの話。

 自分の感じたことの記録です。あらすじなどの説明はほとんどありません。
 何でも読んでみたいひと向けですが、よろしければどうぞ。

 

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 正直話を聞いた時に思ったのは、「へえ、おもしろそうな企画を立てたなあ」、という、今思えばなんとも白けた感想だった。

 同性間の恋愛を青春的に描く、朗読劇。
 メンバーは、声優に俳優に芸人。演じることに精通した人たちだった。流行りの女の子男の人を集めて楽しそうなことをやるのだなあと、ホームページを見ていた。
 そのページをしっかり見ていたのは、出演者に、推している人の名前があったからだった。実はその時期、推しってなんだろうとかしょうもないことでぐるぐる一人で悩んでいる時期で、うろうろページを見つつ、結局、自分に負けた。
 普段は舞台の上で演技をする推しさんの朗読劇、企画としてのおもしろさ、そして、同性のみで同性間の恋愛を取り上げるストーリーに、単純に興味があった。

 誰が誰に横恋慕するんだろうとか、そんな憶測が行き交うツイッターを、ぼんやり眺めていた。

 


~Reading♥Stage「百合と薔薇」とは~

この世界には様々な恋の形があり、その恋の色はすべて違うもの。
それは、異性との恋であっても、同性同士の恋であっても、同じことです。
本作Reading♥Stade「百合と薔薇」では、同性同士の恋をテーマに誰しもが共感し、
応援したくなるようなピュアな恋心を描いたオリジナル作品です。
令和元年の初夏、一番ピュアな恋に、胸をときめかせてみませんか?

(公式サイトより)

www.nelke.co.jp

 

 この煽りを見て、そしてタイトルを見て、同性間の恋愛を「カルチャー的に取り上げるのかな」と思ったことを、大目に見てほしい。

 内容には興味があったけれど、推している人がそれを演じることを、自分はどう受け止めるんだろうかという、少しの不安があった。カルチャーとして描かれてもおもしろいんだろうけど、それを自分が好きになるか(しかも推している人が演じているのを)というのは、別問題だった。
 内容は気になる、あまり機会のない朗読劇を見る、そして推しさんのストレートプレイが見られる。一方、描かれ方には少し心配するところがあって。
 そんな、楽しみとドキドキの両方を兼ね備えた、今となっては吹けば飛んでしまうような軽すぎる期待を持って、劇場へ行った。

 

 率直に言う。勘違いをしていた。泣いた。ひくほど泣いた。何かを見て泣くことはあまりなかったし、涙をこらえるのも得意な方だった。だが、そんな自分が嘘のようだった。
 そこが公共の場でなかったら、そして観劇という場でなかったら、声を上げて泣きたかった。邪魔になるから、静かに泣いていたかったのに、しゃくり上げそうになるほど涙がこぼれてきた。水面に顔でもぶつけたのかというほどに涙で濡れていたが、拭う余裕がなく、カーテンコールもそんなひどい顔のままだった。
 ただただ、強烈なおそろしさの元に、泣いた。好きなひとを思う幸せがどんな形であるかを考えて、泣いた。そこに提示された感情が、あまりにも大きくて、怖いほどだった。

 ここまでわけもわからず泣くのは、はじめてのことだった。

 

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 開幕した直後は、呑気なものだった。

 最初は、とにかく驚きや楽しさの連続だった。朗読劇という見たことのない世界で――後で知るのだが、ここまで役者が「動く」のは朗読劇にしては珍しかったらしい――、軽快な掛け合いがただ楽しくて、描かれる人間模様が鮮やかで。
 そして久しぶりにストレートプレイで見る、アドリブが好きな推しさんが生き生きとしていて、めちゃくちゃに嬉しかった。
 たった10分ほどの冒頭でしっかりとキャラクターを把握させる脚本の上手さに舌をまいていた。懸命に恋をしたり好きなものが言い出せなかったり、他人に興味を持ったり、思うように生きられず羨んだり。鮮やかに彩られた、どこかで生きているひとたちの日常が、たった4人の中に確かにあふれていた。
 事故を予感させるヘッドライトの光を見た時でさえ、作品の展開を想像する余裕があったのだ。
「今後を変える大きな事故」、最初は、入れ替わりとか、記憶がなくなってしまうとか、そういう操作的な展開が起こるのかと思っていた。けれど、ヒカル先生が目を覚ました病院にて、五所河原さんが明らかにアキラくんを無視するのを見て、うっすらと嫌な予感を――確信を持った。ふと「都合よく」アキラくんが姿を消すたびに確信を強め、五所河原さんの含みを持った優しい言い方に、思わず顔を歪めた。
 だが、この作品の本当にこわいところは、そこではなかったのだ。話の展開は、言ってしまえば、この作品で一番大事なものではなかった。けれど見ている時はそんなことがわかるはずもなく、こんな展開じゃなかったらいいなあと、願っていただけだった。

 この話の「本当」に気づき始めるのは、この後になる。

 

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 最初にひっかかりを覚えたのは、ユウキくんのカミングアウトだった。
 一つの天板の上で、3人が手探りで、ゆっくりと感情を共有しようとする。一つずつ置くようなユウキくんの言葉に、黙りがちなアキラくん。純粋に問いを投げかけるヒカル先生。そしてその手は互いに差し伸べられ、つかみ、彼らは立ち上がった。
 良いことはもうヒカル先生が言っちゃったから、と、高らかにアキラくんが言い放った。

「Me, too!」

 その言葉を使うのか、と、愕然とした。既に椅子には座っているくせに、膝の裏をつかれたような、かくん、という衝撃があった。
 あれは、ヒカルさんの言葉を受けて、自分も偏見はない、という意味だけで言ったのではない。そしてスクリーンに映った、たった二語のその文字を見て、胸がいっぱいになった。
 君も同じように見えると言ったユウキくんに、伝えるために。そうだと、おそらくヒカル先生には伝わらない形で、ユウキくんに届けるために言った”Me, too.”だったのだ。
 その言葉が出てきた時、ああ、これはカルチャーではない、コミカルを装ってはいるが、LGBTに踏み込む作品なのだと思った。
 この作品がどこへ向かうのか、何を見せようとしているのか。途端に、その渦に飲み込まれようとしていた。

 

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 普通じゃないんだと、あなただけなんだと伝えた時、どれだけ緊張して、そしてどれだけ、幸せだったんだろう。

 UFO計画を実行する場面のこと。

 いよいよ告白を、と気持ちをかためたアキラくんが、一つずつ気持ちを伝えていく。

 彼は、自分で自分の状態をわかっていたはずだった。
 それなのに、一度は気持ちを伝えることを渋った。それなのに、気持ちを伝えることを選んだ。どちらの時も、これからいなくなる人間のする反応ではなかった。
 明日があり、今でなくてもいいんじゃないかと葛藤する、日常がこれからも続いていく人間の反応で、このままがいいと渋り、せっかく準備をしたのだからと心を決めた。あまりにも、明日のある人間の、優柔不断な反応だった。
 伝えないのも伝えるのも、どちらも、彼にとって苦しいことでないはずがなかったのに。

 あなただけなんだと伝えるのに、どれだけの勇気と熱が要ったんだろう。
 気持ちを伝えるのに、どう言葉を積み上げようと悩んだのだろう。先生はUFOに夢中になりつつある。順序を言葉を考え出すと、きっと言葉はまとまらず、どんどんとっちらかっていった。それでも、届け届けと、一つずつ熱を乗せた言葉をつぶやくアキラくんは、目が離せなくて、魅力的で、その瞬間が幸せそうにすら見えた。

 幸せは、気持ちが通じた時にしか起こらない。
 ちがう、そうじゃないと、はっきりと知った。

 気持ちが通じるということだけじゃない。幸せになるのは、自分の気持ちを相手に知ってもらえた時もなんだと、自分の中にある大切なものを、その相手にあげることができる時もなのだと知った。それだって十分すぎるぐらい幸せに満ちたことなのだと、思い知った。ヒカル先生に気持ちを伝えようとするアキラくんは、苦しそうでも、幸せそうにすら、見えたのだ。

 

 中心の、ベッドを模した台にアキラくんが静かに座っているのを見た時、ああこういうことなんだと、現実を理解した。

 気持ちを持つことの、伝えることの、そしてそれができるように生きていることの、重みを。

 ひとは死ぬ。気持ちを伝えられていなくたって、大好きなひとと通じ合えることがかなわなくたって、死が同情してくれるわけじゃない。
 一度しかない人生、一度しかない感情、一度しかない死。どれも優劣はつけられなくて、選べなくて、だから人は生きるのが苦しいんだと思う。

 明るくて人気者でちょっと口が悪くてわがままで、けれどまっすぐな男の子。そんな子でさえ、お酒に酔うし事故に遭うし、好きなひとに好きと言えないままベッドの上から動けなくなってしまう。自由にならない「愛してる」を、自分だけのものとして持っていることしかできなくなってしまう。大切なひとに、伝えられないままで。
 神様はいないし、いたとしても人間のように同情はしてくれない。どれだけ苦しくてもどれだけ好きでも、気持ちをまだ伝えられていなくても、ひとは死ぬ。

 アキラくんの「告白」は、苦しい言葉も多かった。そして消えていく音の隅まで、愛情に溢れていた。

「傷ついていた」、と彼は言った。自分が人と違う感覚を持ったことを。

 きっと何気ない会話が楽しかったんだろう。そばにいられるだけで、十分だったんだろう。話せるだけで、名前を呼んでくれるだけで、自分を見てくれるだけで、天にも昇るぐらい嬉しかったんだろう。だって大好きそうだったんだ。大好きの気持ちが隠しきれないでいた。隣にいるだけで、一緒にいられるだけで、好きだかわいいと心の中で言って、表ではなんでもない振りを装った。隠していたのは、甘酸っぱさからではなくて、秘めているのが当たり前だったからだけれど。それで幸せだと、変わらないことに無理矢理幸せのラベルを貼り付けて、愛おしそうに抱きしめていることしかできなかった。
 マジョリティが「自分がこの気持ちを伝えたら、あるいは」と思うことの何倍も、難しく、遠くにあって、ひょっとしたら手が届くかもしれなくても。
 ひょっとしたらと、相手から気持ちが返ってくる可能性を、一体どれほど願ったのだろう。期待できたのだろう、期待したかったのだろう。

 くだらない妄想をしては、でもそれは現実の前に砕かれてしまって、だからこそ妄想が楽しいのかもしれなかった。もしこの人が自分を好きだったら、もしキスをしてくれたら。それはどれだけ楽しく、幸せな想像だったんだろう。
 怖がるヒカルさんを抱き寄せた時、抱きしめた時、優しく彼の肩を撫でていた指先に、いったいどれだけの愛しさがつめこまれていたんだろう。

 彼が真っ直ぐに自分のことだけを見てくれる、他の何の要素も偏見もなく見てくれるとわかった時、どれだけ嬉しかったんだろう。どれだけ、好きが募ったのだろう。


 あんなに優しい「愛してる」がこの世にあるんだと、あんな感情があるのだと、初めて知ったような気がして、泣いた。
 その気持ちは、行き着くことを願われていない。伝えることだけに、あれほど一生懸命になれるだろうか。あれだけ全ての心を、注げるだろうか。
「伝える」ことがこんなにも重く、大きく、それだけで尊いものだなんて、毎日息を吸って吐く中で、どうやったら気づけるんだろう。みんな期待をする。優しくしたら優しくしてもらえる、いいことをしたらいいことが返ってくる。好きでいたら、好きになってもらえる。みんなどこかしら、毎日に期待をしながら生きている。
 けれど、その期待を持たなかったら、優しくすることは、いいことをすることは、――好きだと伝えることは、どれだけ勇気の要ることなんだろう。
 先を望むか望んでいないかって、こんなに大きなことなんだろうか。ただ好きでいることがどれだけ幸せかなんて、考えることがあるんだろうか。だから伝えるのにあんなに勇気も熱もいるんだと、どうやったら思い当たることができたんだろう。

 やることをやらずにいったら許さないからな、と言うユウキくんに、わかってるよ、と返すアキラくん、このやりとりの重みは、きっと二人にしかわからない。
 気持ちが返ってくるかどうかなんて関係ない。ただ自分の中にある気持ちを、あなたが好きだという、ほかの誰も持てない、ほかの誰よりも大きくて大切で苦しい気持ちを、その人の前に置いてみたいのだ。それだけ大切なものを、これはあなたのものなんだと、あまりに無防備なその気持ちを、傷ついたとしても、知ってほしいのだ。

「こんなしあわせなことって、ある?」

 それは本当に、そのままの意味なんだろうと思った。気持ちを伝える、それを聞いてくれる。それだけで幸せなことなのに、あなたが好きだよと言えることはとてもとても幸せなのに、それが返ってくることの、どれだけ幸せなことか。

 ロッカーで待ち伏せをしてささいなことも気になって特別扱いをされたかもと喜んで、しょうもない行き過ぎた妄想もするしたまには呆れたりもする。告白じゃないのか、なんて肩を落としていたのに、二人きりだと誘われた瞬間一気に気持ちは舞い上がる。
 恋をする様子はとってもみっともなくて、でもそれ以上にとてもかわいい。アキラくんは、全力で恋をしている、ただの男の子だった。でも一つ、恋をする多数のひとと違うのは、答えが返ってくることを、期待していないところだった。

 唇の柔らかさを尋ねられた時の、戸惑ったような曖昧な間が、彼らの気持ちの重みを証明しているような気がした。息も止まるような、気持ちの重さを。

 キスをして、表情は見えないまま、アキラくんがわずかに足を動かす。
 それは官能的な場面だと言ってしまえば、そうなのかもしれない。でも、戸惑ったようなその反応が、「気持ちが通じるってこういうことなんだ」と感じたことの表現であるように思えて。あまりの感情に、涙を流すことさえやめたくなった。嬉しさの前に、きっと戸惑いがあった。気持ちが繋がるのがはじめてのことで、戸惑いや嬉しさや、大好きなひとと通じるということ、それをようやく、アキラくんは知れたのだと思った。

 ヒカル先生が呼びかける。切望するように、アキラ、またな、と。
「ヒカル」
と、アキラくんは嬉しそうに呼びかけた。
 そしていつものように、でもいつもよりゆっくりめに、ふざけたピースをした。
「またね」
と。

 いつも「ヒカル先生」としか呼ばなかった彼が、はじめてその名を呼び捨てにした瞬間だった。

 その呼びかけに、色んなものが見えて、また泣いた。彼が当たり前のようにヒカル、と呼ぶ未来がまだこれから、あったかもしれない、と思った。
 時間はまだあると思っていたと、言っていた。それなのに、こんなことになっちゃって。時間はあると思っていた、もっと一緒に過ごすことができると思っていた。ひょっとしたら彼は、自分の気持ちを伝えなかったかもしれない。でも、大好きなひととずっと過ごせたかもしれなかった。気持ちが通じなくてもいい、一緒に過ごす時間がたくさんあればそれでいいと、思っていたのかもしれなかった。
 一緒にいることが、どれだけ幸せなことだったのか。
 周りが何と言おうと、彼にとっては大切で、かえがたいものだったんだろう。彼だけの、大切な本当のことだったんだろう。嘘じゃない、本当のことであるのが苦しいかもしれないけれど、だからこそ大切なもの。大切な気持ち。
 僕にぴーったりとくっついていればいいんですからね。そうふざける声の隅に、ただそうしてほしい、というささやかな願いが見えた気がした。叶わなくてもいいけれど、そうしてほしいと、願うことだけはゆるしてほしい、とでもいうような。
 何も言えなくなる。息がつまるほどの気持ちの前に、一体他人が何を言えるんだろう。押し黙るしかなく、言葉も全て消し込むような気持ちの前に。 アキラくんの中には彼しかいなかったんだなあ、だから他なんてありえなかったんだと思った。
 どれだけ、知ってほしかったんだろう。

「ヒカル」
 はじめて呼び捨てたその名前に、一体どれだけの気持ちがつまっていたのか。

 愛おしく呼んでもゆるされる存在になったんだと。気持ちを隠さなくてもいい、怖がらなくてもいい。相手が受け入れてくれるその名前を、大切に呼んでもいい。
 ようやく、彼だけのものになったのだと思った。
 好きなひとと、彼を追いかけるひとじゃない。好きなひとと、好きなひと。「ヒカル」という呼び捨ての名前に、対等というか、「気持ちが繋がった」相手にはじめてなれたんだというのを感じた。ただの同僚でもない、「好きな人」になれたんだと思った。お互いが、お互いだけのものに。自分だけのもの、たった一人に。
 これからなのに、これが最後で、これが一番てっぺんの幸せなんだと思った。それはどうしようもなく悲しいのに、どうしようもなく、やっぱり幸せなことに見えたのだ。

「またね」
 今は少し、お別れをするけれど。

 少し、会えなくなるけれど。ほんのちょっとのお別れだ。ここではないけれど、すぐに会えるからね、と。希望でもなんでもなく、絶対に叶う約束のように思えたのだ。また後でね。どこかでまたすぐに会える。この気持ちを持っていれば、前世でも今世でも来世でも、どこでも絶対に会える、と。
 その気持ちに出会えたことが、幸せで、本当のことだから。『会えない』なんてささいなことなのだと、その気持ちの前には、とてもちっぽけなものなのだと、思った。
 その、あまりにも大切な感情の前に比べたら、会えないなんて、大したことじゃない。
 だからこそヒカルさんは、「お前も忘れるなよ」と、覚えていてほしい、この感情を忘れないでくれと、不思議な方法でやって来た「彼」に、叫んだのかもしれない。絶対に会えるから、困ることがあるとすれば、忘れられてしまうことだけ、と。

 どれだけの言葉を尽くしても、たった三文字の言葉のやりとりに、そのおそろしさに、まぶしくて心地よく重たい愛情に泣いてしまった気持ちは、説明できようもない。どんな言葉を選んでも、どれも違う気さえするのだ。それぐらい、あの言葉が怖くて、おそろしくて、そこに込められた感情の前に圧倒された。鬼が怖くて泣くように、ただそこにあった感情がおそろしくて、泣いた。

 

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 ラストについて、既にたくさん泣いた後だったというのもあるんだろうけど、ああ、これはこの作品が体現したかったことを終えた後の話なんだな、話をきれいにまとめる、形を整えるためのものだったのだなと思う。
 こっそり思った。おそらく、この作品がやりたかったことを提示するには、アキラくんが死んでしまうかどうかは、問題ではなかったのかもしれない、と。
「うらめしや、」、そうお茶目に笑って幽霊となったアキラくんが出てきた時、嬉しかったけれど、少し気が抜けたように微笑んでしまった。あの瞬間の幸せには、どうあがいても、勝ちようがなかった。
 これから、気持ちが通じ合った2人は一緒にいられるのかもしれない。でも、その幸せは、あの瞬間を上回る幸せじゃない。彼らの一番の幸せはとっくに迎えていて、それはあの、気持ちが通じ合った時だったのだと思った。その後のこと、それからのことは、彼らもわたし達も、きっとわからなくていい。

 

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 とんでもなくビックリした。泣く気でいなかったから、カバンの中からハンカチを出しておかなかったことをめちゃくちゃに後悔した。一番ビックリしたのは、二人の気持ちが通じ合ったからでも、アキラくんが死んでしまうからでもなく、「よくわからないまま」ひたすらに自分の涙が止まらなかったことだった。
 おそろしかった。ただそこにあるものがあまりにも大きくて、幸せとはこんなものなのかと、目の前にあるそれが怖くて泣いた。
 同性の恋愛だから、ということは、何もなかった。だからこそ、愛おしくて、涙が出てきた。人間のとびっきりの幸せに気づいて、涙が止まらなくなった。
 アキラくんの持つその「好き」が愛おしくて、羨ましくて、あんまりにも幸せだったのだ。そんな素敵な感情に出会えて、楽しそうに恋をして楽しそうに好きなひとのそばにいることが、とてつもなく幸せなことなんだと思った。優しく呼び捨てにされた名前に、必ず会うという「またね」に、幸せ以外の何がつまっていたというんだろう。
 対象の性別がなんだという話よりもっと先の、もっと根本的なところ。「あなたが好きだ」、その気持ちをもてることが、通じることが、どれだけ奇跡のようなことで大切なことなのかを、深々と突き刺された。そして、気持ちを伝えること、たったそれだけのことにどれだけの熱が必要で、どれだけ幸せなことであるのかを、しっかりと知らねばならない、流してしまってはいけない、日常や世間の中でころころと持て余して、名前もつけないままどこかへ落としてきてしまってはいけない、と思った。
 ひとを好きだという気持ちが、こんなにも幸せなことだと。そしてそれを伝える幸せを。忘れてはいけない、と思った。

 

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 さて、話はカーテンコールに移る。内容についてはいつまでも語っていたいし、この数日、毎日わけのわからない怖さに襲われては泣いていたし、「ヒカル、またね」の言葉に込められた恐ろしさがどう頑張っても言葉で表せないけれど。
 タイトルの話に戻ろう。

 ぼろぼろに泣いた後、終演して明るく照らされたステージを見た。ハンカチを出していなかった反省を生かし、なんとか顔を抑えるものはあったが、やはりひどい泣き方をして、あまり意味をなしていなかったような気もする。それでもと、なんとかまともな視界をつくり、かすまないようにと涙をこらえてステージを見やると、4人のキャストさん達が並んでいた。それはもうみんなやりきった晴れ晴れとした表情で、いっそ恨めしいほどだった。
 キャストさん一人一人からの、挨拶があった。
 明るく、和気藹々と、たまに笑いもとりながら、カーテンコールは進んでいく。人数が少ないせいもあってか、みんなのびのびと喋っていて、自然と笑顔になった。次第に、なんとか重たい涙に、笑ってしまう気持ちが勝つようになっていった。そして、推しさんの番が回ってきた。
 彼は、色んな解釈がある、と言った。
 もっと色んなことを言っていたと思うし、一人だけ共演者に呼び捨てにされることの不満を述べていたりした気もするけれど、とにかくそう言った。公演ごとのチームによって、この脚本には色んな解釈があったんだろうと。そして、LGBTを取り上げた作品だと言った。



 自分は、もとよりLGBTの問題に関心があった。
 今働いている組織に就きたいと思ったのは、そこの仕事のうちのLGBTの啓発に関わるものをたまたま見て、これはすごいと感動したからだった。
 身近にLGBTの人がいたのもある。
 物書きとして、愛情というものを自分がどう描けるかについて、考えることも多々あった。
 この作品に興味を持ったのも、推しさんの存在だけではなく、もともとはLGBTに関心を持っていたからだった。

 いくら理解が進んだ知名度が広まってきたと言っても、まだまだその言葉は浸透していない。一人歩きする憶測だってきっとごまんとある。自分自身でさえ、知識や理解が足りないことはまだ山ほどあるだろう。だが、気持ちのあり方が一つだと言われるのはおかしいと思っていた。恋愛対象にしろ、愛情のスタンスにしろ、多数というだけがイコール正解ではないと、言いたかった。わからないことは多くても、上手く伝えられなくても、それだけは本当だと思っていた。
 けれど、それを言うのは、実際に口にすることは。思った以上に難しかった。
 説明をすることはできる。一方その問題に関心を寄せる者として、他人事ではなく話すこと、広めていくことは、簡単にはいかなかった。自分が日常でできることは、知られてほしいと思ったツイートをリツイートして少し意見を述べたりだとか、せめて間違った考えをもったひとに出会った時に、そうではないんだよと、教えるぐらいだった。しかしそれすらも、実際は上手くいかないことも多かった。無邪気にふーんと言う顔には、ただただ理解ができないのだと書いてあった。

 

 だからこそ、推しさんが。表の場で、役者という立場で、その言葉をためらいなく使ったこと。その賢さに、衝撃を受けた。
 ヒカル先生ではないけれど、肯定も否定もせず、LGBTという言葉自体を述べることは、意外と、とても、難しいことだと思う。ましてや、少なくともその場にいる数百人に影響を及ぼす力があって、表の舞台に立つひとが、何の含みもなく、あまりにもすんなりとその言葉を口にしていたことが、わたしにはとてつもなくすごいことに思えたのだ。そして、嬉しかった。積極的な意見を言っていたわけではない。けれど、この作品を演じたひとが、当たり前のようにその言葉を言えること。それが嬉しくて、誇らしかった。 
 推しさんがそういう賢さを持ったひとだったことが、あまりにもまぶしくて、嬉しかった。

 

 推しているひとの口から「LGBT」という言葉が出たことが、嬉しかった。作品自体にももちろん、とんでもない大きな感情をもらったのだけれど、それと同じぐらい、カルチャーではない、LGBTという取り上げ方をしたのだと。そして推しさんの賢さにも、おそれおののいた。そういうところがすきだーーーーーーと、頭を抱えたりもした。

 懸命に恋する一人の男の子が、幸せそうに恋をする男の子が、そこにいた。すごい人に出会ったのだなと思った。その「大好き」の気持ちに、ただただ泣かされて、その賢さに衝撃を受けた。賢いひとなのは知っていた、知っていたつもりだけれどまだまだ知らないところがあって、こんなにおそろしいひとだとは思わなかった。
 このひとを推していなかったら出会えなかった作品なので、出会わせてもらったこと、素晴らしい人でいてくれることに感謝しかない。ありがとう。
 好きとか推しとか、どうでもよくなってしまうぐらい、「ああ、これが見たかったんだ」と、こんなに心を動かしてくれるひとはいないと、改めて思った。

 

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 めちゃくちゃ言いたかったことは、ここで終わりです。が、少しだけ、余談をします。
 わたし個人の話になったので、折りたたんでおきます。
 自分の気持ちのかたちの話。そして推しさんがおそろしいひとだった話ももう少し。気にしてくださる方は、お読みください。