ハロー、ヒーロー

生存と感情のきろく場所。

それを恋と呼ばないでほしい

 どうかそれを、恋と呼ばないでほしい。



 推している俳優さんの、30歳のバースデーイベント。
 その最後、舞台上からその人がいなくなっても、わたしはずっと泣いていた。むしろ、本人がいなくなったのをいいことに、思い切り肩を丸めて泣いた。
 嬉しいとか寂しいとか悲しいとかじゃない。たぶん一番は、悔しさの涙だった。


 これは推すことにまつわる話ではありません。イベントのレポでもなく、タイトルから期待するような内容でもないと思う。
 それでも書いてみたい。ほとんど自分の話です。自分の情けなさの話、夢の話、感情の話。
 後悔をする人生でありたいと、自分を信じ切りたいと思った話。

 わたしは普通という言葉があまり好きじゃないけれど、今日はいっぱい使うと思う。
 上手く表現できなくてごめんなさい、でもその意味がこれを読んでくれた人に、まっすぐ伝わってほしいなと願いながら、言葉を尽くします。



1 バースデーイベント

 まずは、わたしの推している人の話から。


 推している俳優さんが、今年で30歳になった。

 アニバーサリーイヤーと称したこの一年、様々な企画が行われていた。カレンダーの発売、幼少期からの写真を集めたアニバーサリーブックの発売、どれもご本人がたくさん考えたり関わったりしてくれた企画だ。特典もそれぞれにたくさんあって、ファンとしてはこれ以上ない嬉しさだった。

 テレビで毎日顔を見るようなタレント、俳優さんを抱える大手事務所に所属しているその人は、舞台を中心に活躍する人だった。とてもとても大きな事務所。サイトを開けば、誰もが知るようなビッグネームが並んでいる。
 そんな人たちを大勢抱える中で、舞台という、どうしても人口の絶対数が少ないフィールドで懸命に活躍しているこの人の節目をお祝いしようと、事務所の人が考えてくれていたことがとてもとても嬉しかった。

 今回のバースデーイベントは、そのアニバーサリー企画の最後、集大成という位置づけだった。

 バースデーイベントはこれまでにも開催があったけれど、はじめて大阪での開催が発表された。どちらかといえば関西寄りに住むわたしは、それがとても嬉しかった。東京に加え、もちろん大阪のチケットをとった。
 大阪では色んなことがあった。配信が入っていないからギリギリかなと、かつて演じた作品の役のお芝居をもう一度見せてくれた。この地域限定でと、元芸人の司会の方と漫才を見せてくれた。でも1部と2部のお客さんがほとんど変わらなくて、全く同じネタをやることになっていたその人はステージ上で崩れ落ちていた。イベントの最後に流れるEDムービーの中で、推しさんが高校生の時の写真、アヒル口で裏ピースをしている写真が映ると、思わず会場から笑い声が漏れたのが印象的だった(その写真は前述のアニバーサリーブックにも使われていて、その中で「裏ピースなんて恥ずかしい!!」と本人がコメントを書いていた)。

 翌日、会場は東京。かねてより親友と呼んでいる俳優さんがゲストで来てくれた。二人はたぶん、普段一緒にいるときのくだらないノリで話したそうに、でもステージ上だからとしゃきっとするよう努めているように見えて、そんな関係性を見せてもらえるのも嬉しかった。


 そして、東京2部のラスト。いよいよ、このアニバーサリーイヤーの最後の企画だ。
 その人に関わりのある人たちから、サプライズでメッセージや動画が送られてくるというコーナーがあった。
 大阪から東京1部まで、共演があったり仲の良い俳優仲間たちからのメッセージがほとんどだったのが、2部では少し趣向が違っていた。出演していた舞台の演出家さんからが中心で、母校の先生からのメッセージ動画まであった。

 その最後に、「お母様からも、お手紙を預かっています」と、司会の方が告げた。


 最初に言っておくと、わたしはこういう企画が嫌いだ。
 普段舞台や俳優さんのSNS投稿を消費している身で何を言うかというのはごもっともなのだが、ご本人の、わたしたちがそれを知らなくても彼を応援できるようなパーソナル部分を無理に見せてもらうべきじゃないと思っている。しかもこういう企画について回る「家族を登場させて本人を泣かせよう」という魂胆が嫌いだった。そしてそれを結果消費することになってしまう自分のことも、嫌だった。こういう記事を書くことだって、そもそも消費に他ならないのに、だ。

 スクリーン上にお手紙の内容が映し出され、声優さんなのだろう、読み上げる女性の音声が流れる。
 それまで、客席を振り返ってコメントしたりつっこんだりしながらメッセージ動画を見ていた推しさんは、このお手紙の間、一度も客席を振り返らなかった。

 メッセージの内容についてはここでは書きません。赤の他人の自分が、軽々しくまとめていい内容じゃないと思う。
 お手紙が締めくくられて、ステージに照明が戻った。司会の方に促されながら、推しさんが中央に歩いてくる。当然、感想を求められたが、その人は言葉を失っていた。


 推しさんは家族を大事に思っている人だと思う。自分が大事に育ててもらったことを、お金を時間をかけてもらったことを、きちんと理解している人だった。それでもこの道を選んで、反対もされたけれど今では応援してくれていることに感謝していると、何度も聞いたことがある。
 ほとんど言葉が出ず、目頭を抑えて何度もうつむきながら、こういうことを絶対にする人じゃない、とても厳しい人だった、と、とつとつと喋ってくれた。

 その人がシャイで自分のことを話すのが苦手そうなのは感じていた。それを誤魔化すように、強気な言葉で喋ったりすることも。

 だからその場も、一度涙を振り切って、強く明るい言葉で誤魔化すこともできたんだと思う。でも彼はそれをしなかった。
 お母様からの手紙は、色んなことを思い出すきっかけだったように見えた。この道を選んでからの十数年の間に考えていたこと、起こっていたことを、少しずつ話してくれた。
 無音の時間が何度も訪れた。声はほとんど震えていなかったけれど、何度も何度もうつむいていた。それでも彼は少ない言葉で、話すことをやめなかった。
 何でこんなに頑張っているのに、こんなところにいるんだろう、と思っていた時期もあったと。

 これはとても暴論だしこの言い方が気に触る人もいると思う、でもわたしはそう感じているので言葉にします。
 いわゆる2.5出身の俳優さんを追っていると、人に言われることがある。「このひとたちは、本当にこれがしたくて俳優になったのかな」。
 正直、わたしも思わないわけじゃなかった。キャラクターの再現度がとても重要視される場所で、ウィッグにカラコン、原作にアニメがあれば声優さんに声を寄せるのも当たり前の舞台。歌やダンスを披露することも多い。舞台である以上、お芝居だってとても大切で真剣に作られているけれど、他の要素がとにかく多い。
 もちろん、最初からその世界を目指して、あるいはやってみて好きになった俳優さんたちがいるのも知っている。でも、例えばわかりやすい人気や活躍でいうなら、そしてお芝居というものだけに気力を注ぎやすいという意味では、おそらく俳優の活動のフィールドというのは、映画やドラマがメインなんだろう。
 推しさんは歌もダンスも得意じゃないと言っていたし、うかがい知る限りオタクじゃない人だ。演じる作品の原作を元々知っていることも少ないように思う。でも彼は、2.5という世界で長くやってきて、今では色んな場所で必要とされる人になっている。
 だが、たぶん推しさんは、そこを目指していた人ではなかった。


 だいたい最終まで行って落ちるんですよね、と言った。
 仮面ライダーのオーディションに行ったと言っていた。最終まで行ったけれどダメだった。
 朝ドラのオーディションを受けて、最終まで行ったけれど落ちたと言っていた。
 必死に自分と相手役、全てのセリフを覚えて臨んだけれど、相手役の人はセリフをほとんど覚えてきていなかった。一人だけで、いいお芝居はできない。結果、オーディションでのその人との芝居が噛み合わなかった。
 その人の名前は言えないけれど、みんなも絶対知っている人です、と言っていた。名前を挙げずとも、そういう事実があったということだけで角が立つような話を、簡単に口にする人ではなかった。けれどその時の推しさんは、静かな声でそう言った。
 こういったオーディションを受けるために、半年間の仕事を全て断ったこともあったという。
 その前のコーナーでは、笑い話で、出番が終わって袖にはけた途端に吐き、それでも公演を続けたことがあったと語ってくれた。
 悔しい時期があったと語っていたのは知っていた。ふざけながら、映画のオーディションに落ちた話もしていたことがあった。
 おどけて自分は真面目なんだと語ることはあっても、こんな風に話すところを見るのははじめてだった。
 誠実に、まじめに取り組んでいても、なんでなんだろう、と。

 普段絶対に弱みを見せない人だ。弱音を吐かないし、こういうエピソードはあったとしてもだいたい数年後に出てくるし、そもそも自分のことをあまり語らない印象があって、それがここ2、3年で、少しずつ教えてくれるように変わったような印象を受けていた。

 彼の、時折止まる話を聞きながら、会場は、誰も泣いていなかったし笑っていなかった。励ましの声が飛んだり拍手が起きることもなかった。ただ舞台上の一人だけが泣いていて、その音を、無音を、あの会場の人たち全員が聴いていた。
 率直に感覚で言うならば、まるで重大ミスをした仕事の重役会議みたい。誕生日を祝うめでたいイベントで起こる空気じゃないし、それが感傷的であったとしても、家族からのメッセージを受け取った時に起こる空気でもないと思った。異様な空気だった。
 首が動かなくて。首の根っこがグラグラする感じだけがあって、今わたしはまっすぐ前を向けているんだろうか、それとももう倒れているのだろうか、貧血を起こしそうだ、頭から血が全部抜けていきそうだと思いながら、体の全部の神経が目の前の無音と声に集中していた。あんな空間、はじめてだった。


 そしてその人は、静かに語り終えて。がんばります、と何度も、彼とは思えない小さな声で繰り返し言って、最後は笑った。




 イベントが終わり、EDムービーが流れ始めて。
 その切なくも温かいピアノ曲のイントロを聴くと、わたしは顔が上げられなくなってしまった。肩の震えが止められなかった。嗚咽をできるだけ噛み殺しながら、泣いた。


 その時考えていたことは三つ。


 一つ。その人のお芝居に助けられたことがあったこと。自分の感情も正解かもしれないと思えて、これからの人生も生きていく勇気をもらえたこと。
 詳しくは別記事にしているので、ここでは語りません。

 二つ。その人に出会って、舞台というものに出会って、元気で健康な人生をもらえたこと。
 これも別のところで書いているので、多くは語りません。それでもわたしは、レールを踏み外す勇気を持てたこと、ごはんを元気に食べられる健康な人生を手に入れられたことを、感謝し続けている。


 そして三つ。自分は何をやってきたんだ、ということ。
 悔しくて悔しくて情けなくて、どうしようもなかったこと。


 悔しかった。自分が何もできていないことが。
 ファンとしてとか、推しさんに対してじゃない。
 こんな場でひどく自己中だけれど、自分の夢に対して、真摯な努力家でいられなかったことに、悔しかったし情けなくて泣き止むことができなかった。
 こんなに努力している人がいて、自分はその人を応援していて、その姿に刺激を受け自分も頑張りたいと言っておきながら、一体今まで何をやってきたのだろうと。



 ここからは、自分の話をします。

 わたしには、小さくてぼんやりしているけれど夢がある。
 自分の小説を、必要としてくれる人に、届けること。
 一冊でいい、一度でいいから、ネット上や自主活動じゃなく、自分の書くものを活字として本として、人からお金をいただいてもいいと思えるような作品を書き上げて、世の中に送り出すことが、昔からの夢だった。

 今の生活の、平日は長くて短い。片道一時間半かかる通勤に、職場に着けば笑顔で職場の人やお客さんとやりとりをして、わけのわからない問い合わせや問題に対応する。それでも今の職場は平和な方で、繁忙期以外の残業もほとんどない。けれど家に帰れば当然家事をする必要がある。家族分の食事の用意とお弁当作りが要る。
 仕事中に仕事以外のことを考える余裕はない。家事を分担していても、頭も体もすぐにパワーを消費し切ってしまって、全て終わる頃には、ベッドに倒れ込んでしまっている。



 それがなんだ。何言ってんだ。



 そんなの、やりたいことのためには全部犠牲にしろよって、乗り越えてみせろよって。
 夢なんじゃないのか。努力できていると思っていたのか? 本当に無駄な時間はなかったか、甘い気持ちでやっていなかったか。目標を定めようと本気になったことは? 仕事が始まってから、学生の頃のように寝る間を惜しんでペンを走らせたことがあったか? 嫉妬心や羨みと闘う暇があるなら、毎日PCを立ち上げるボタンぐらい押せるだろう。自分全然頑張れてないじゃん、何言い訳ばっかり垂れてんだ、努力なんて全然全く足りてない。この人の姿を目にしたら、吐きながら公演を続けて何度も何度も悔しい思いやめる思いをしてそれでも立ち続けて。何言ってんだよ、もっとやれよ、本当に無理だって、ものを書くことが吐くほど嫌いになるまでやれよ。体力とか時間とか目標とか比較とか、本当にやりたいことの前に、何か意味があんのかよって。


 悔しかったし情けなかった。


 イベント内のコーナーで、ファンからのアンケート回答が紹介される場面があった。推しさんに対して思っていることや魅力を、事前にネット上から回答していたものだ。自分の書いたコメントが紹介された。読み上げられた時は、恥ずかしくも、嬉しくはあったはずだった。
 それが一変した。推しさん含め、これを聞いていた全員の記憶から今すぐ消し去ってくれと願った。よくも人生の目標だ、自分も自分の夢を頑張りますなんて、この人に向かって言えたものだ。手紙に書いたり、直接伝えたりもできたものだ。
 ふざけるな。一回滝壺にでも落ちて頭を打ってしまえ、推しさんの顔を見たらコンマ0秒で逃げ出すようになってしまえ。便箋を見たら全部粉になるまで破り捨てたくなるようになってしまえ。


 すごい人、じゃなかった。

 普通の人だった。


 思えば、職場の斜め前の、未だに新採と間違えられる先輩より、推しさんは歳下だ。
 優しくてエンターテイメント精神にあふれていてとってもお顔が綺麗だけれど、このお仕事についていなかったら、彼が呟いたように、このお仕事をやめて普通に働いていたら、どこにでもいる人だったのかもしれない。
 最近結婚の話をよくするよね、と、最近やっていたインスタライブのコメントで言われていた。そんなことないですよ、と笑っていた。
 普通の人なのだ。家族がほしいと思っていたら、年齢的に、もちろん考えることだってあるだろう。わたしたちが周囲と比べたりするように、意識することがあるかもしれない。けれど、この先結婚することがあっても、少なくともこの年まではしなかった人だった。お芝居を、人前に立って仕事をすることを一番に優先してきた。
「自分が人前に立つことで、それが誰かのためになるのなら」と、踏ん張って立ってくれている人だった。
 イベントで、目を見てありがとうと言ってくれるその人は、とても普通の人だった。


 わたしたちと同じように、やりたいこと、やれないこと、足りていないもの力不足なことで、毎日いっぱい悩むのかもしれない。
 朝ドラの最終オーディションに臨む時、色んな人が喜んでくれるかもしれないと思って、必死にセリフを覚えたのかもしれない。
 わたしより歳上だけれど、でもずうっと歳上でもない。
 少しだけ人生経験の長い、先輩だ。
 いっぱい色んなものを捨ててその姿を見せてきてくれた、普通の人だ。


 悔しい。自分が情けなくて、どうしようもなく悔しい。

 そんなことを考えながら、照明が戻ってきた客席で、イベントが終わってもしばらく、わたしは泣き続けていた。



2 それを恋と呼ばないでほしい


 実はもう一つ、泣いていた時に考えていたことがある。
 少し話が逸れる。ようやくタイトルに関わります。恋の話をします。と言いつつ、途中からさらに話が逸れます。


 自分と恋愛については、前述の「別の記事」で少し書いたことがある。今回書いてみたいのは、自分の夢に結びつく話だ。


 君にとっての恋愛と「推すこと」って、似てるんじゃない? と、友人に言われたことがあった。

 なんとなく、自分の思う好きと、世に聞く好きの感覚にズレを感じている、みたいなことを相談していた時だったと思う。好きだったり、もっと知ってみたいと思った人はいたことがあるけれど、その先がない。先を望めない、「恋人になりたい」の思考にならない。自分のものにしたいとは思わない。
 友人は首を傾げてから言った。でも君は推している人がいるじゃん。君の語る恋は、まるで「推し」に対するファンレターみたいだねと。
 一瞬うなずきかけた。確かに、気持ちが返ってくることが前提ではない、でも好きの気持ちを伝えることができる、という意味では似ているのかもしれない。だが、わたしは別にファンレターを書くように人を好きになっていたつもりはなかったし、推しさんに恋をしているのかと言われると、やはりそのつもりもなかった。
 でも、だからといって、それらの自分の感覚を、今まで人を好きになった時の感覚や、推しさんに対する感情の違いを、上手に説明することはできなかった。


 けれど。今回の経験を通して、大声で言いたくなった。
 違う。全然違った。そうじゃない。その言葉では言い表せない。
 どうかこの感情を、恋とは呼ばないでほしい。
 友人でも恋人でも家族でも恩師でもない、それでもどうしようもなく尊敬して憧れて悔しくてやまない。その人の誕生日を祝うはずのイベントで、自分の馬鹿さ加減に、努力不足に悔しさをおぼえてボロ泣きしているのだ。正直、自己中で失礼にもほどがある。
 でも、そんな感覚をくれたのは、気づかせてくれたのは、間違いなくこの人の姿だった。
 友人でも恋人でも家族でも恩師でもない他人だけれど、教えられることがある。心に響くことがある。伝わるだろうか、とても大切なこの感情が。


 ”どうかそれを、恋とは呼ばないでほしい”。


 自分の中には、そういう、うまく言葉や関係性をあてはめられない感情がいっぱいあるのだと思い出した。もとはと言えばそれを表現したくて、伝えたくて、小説を書くようになっていたのだった。
 だからそれを、恋と呼ばないでほしい。名前をつけないでほしい。

 そして誰よりも自分に、そういった自分の感覚を、信じていてほしかった。


「実はもう一つ、泣いていた時に考えていたこと」というのは、これだ。わたしが泣きまくっていたのは、自分が努力など何もできていなかったことと同時に、あんなに大事にしたかった自分の感覚を、ものを書くための感覚を、自分のことを、信じ切れていなかったと気づかされたからだった。

 今から、自分の中にあるそういうものの話を淡々と連ねます。
 たくさん話が飛びます。


1 
 今回のイベント、大阪公演の1部と2部の間で、幼なじみと会っていた。
 春に会ったとき、読んでみたいと言ってくれたので、自分の書いた小説を渡していた。数か月後、読み終えたという彼女から、とても心のこもった連絡をもらった。気がついたら一気に読み終えてしまっていた、勢いで連絡しているから上手く言えないけれど、たくさんの感情がこみあげてきて、自分にとってバイブルのような大事な本になったし、これを書いたのが自分の幼なじみだということが誇らしかった、とまで言ってくれた。
 今日はそのことを話したかったんだと、その子が言ってくれた。「何でこんなものが書けるの?」と、真剣な眼差しで問いかけてきた。君は小説を書く時に、文献でも読むの、何か調べたりするのと。わたしが書いたのは、恋をしているのが楽しくて幸せでしょうがない、という話だった。
 嬉しかった。
 わたしは調べ物をして書くのが苦手だ。自分の中にある感情を引っ張り出してきて書いている。しかも今回は、よりにもよって恋の話である。それでもちゃんと、人の心に届くものを書けるんだと思った。
 恋を知らないかもしれないと思っていた。でも自分の中にある大事な感覚で、表現できた。伝えられた。受け取ってもらうことができた。

2 
 友人の結婚式に、二度参加したことがある。どちらも、まともに喋れなくなるぐらい、ずっと泣いていた。本人に爆笑しながら心配される有り様だった。
 自分で言うのもあれだけど、その場にいた誰より泣いていたと思う。花嫁は、大学の友人と、ネット上で知り合った友人。どちらにも、わたしより付き合いも関係も深い友人がその場にいるはずだったけれど、たぶんわたしはその人たちを差し置いて、一番泣いていた。
 もうこの子の特別の一番には、私のよく知らないやつが絶対にいる、わたしが一番になることはないという気持ちと(何を偉そうに、というのはいったん横に置いておいてほしい)、どうしても幸せになってほしい気持ちとが半々で泣いていた。


 もし目の前のこの子が、自分を一番にしたいと言ってくれたら。それが同性の子でも、わたしは頷いてしまいそうな気がする。そんなことを、何人の友達に対しても思った。なんて浮気症。
 でも目の前にいるときはその人が一番で、その人と話すためのわたしが全部だった。


 今まで好きになった人はいる。恋をしていたと思う。
 でも、その人たちに向ける感情は、一番しっくりくる言葉で表すならば、「この人の特別な友達になりたい」だった。


 今年に入って、人生ではじめて占いに行った。
 あなたには恋愛の星はあるけれど結婚の星はありません。そして、性別問わず好きになります。自分が好きで相手も自分のことを好きならそれでいい、という感じです。そう言われた。
 ビックリした。嬉しかった。泣きそうだった。ホッとした。
 たかが占い、だった。でも、自分のことを何も知らないはずの占い師さんにそう言われて、保証をもらえたような気がした。相変わらず、人に“恋をする”自信はなかったし、実際に同性を好きになったことはなかったけれど、人を好きになることについて、性別にこだわらなくていいと考えることが、確かにわたしなのだとお墨付きをもらえたような気がしたのだ。


 それでも焦ることがあった。自分のこれからについて。
 年齢。周りの目。結婚していく友達が、どれだけ関係性は変わらないと言ってくれても、その子はその子の家族を優先しなければいけなくなる。それに自分だって、一人で生きていけると思っているわけじゃない。
 何か動いてみるべきなんだろうか。わたしは本当に、みんなと同じ感覚では人を好きにならないのかな。そう思い込んでいるだけかな。まずは周りの人をもっと知ろうとしてみる? いろんな人と出会う場所に行ってみる? あるいはほら、今は恋活とか、アプリとか。上手くいくかはわからないけど、どう転んだって、小説には活かせるかもしれないし。
 それでもわたしは、そういった行動に出ることを何度も決めてはやめたし、あるいは、実際に行動してものすごく落ち込んだりした。自分が嫌だと思うことをした、と感じていた。
 そもそも人を好きになるかどうかという話もありながら、誰かを好きになろうとする場で、自分を女だと言って、男性の目の前に立つのが嫌だった。だってわたしが好きになるのは、男の人じゃないかもしれない。性別の区別は重要じゃないし、たとえば自分が本当に誰かと一緒にいたいと思ったとして、それが「恋愛」だと名づくものになるのかもわからなかった。
 前述した救われた作品のことを、よく思い出す。わたしはあの男の子のように、ただ一人の人間として誰かを好きになってみたかった。きっと彼は自分が同性を好きな人間のまま、相手が異性だったとしても、あの人を好きになっただろう。




 全部理想論。都合が良すぎる。そんなに上手くいかない。わかっている。


 わたしはいつも理想を書いているだけなのかもしれないし、友達の結婚式で爆泣きするのは誰だってそうだし、友達だろうが恋人だろうが相手を自分を特別にしてくれたら嬉しいだろうし、占いなんて所詮占いだし、わたしの考えというのも、いわゆる年頃の悩みや言い訳だよくあることだと一蹴されても文句は言えないのかもしれない。


 でも、わかってはいるけれど、どうしても自分に嘘をつけない。
 夢物語だったとしても、心にもないことをしてはいけない。嘘をついた途端、自分から生まれる言葉も全部嘘になってしまって、誰の心にも届けることができなくなる。嘘では、人の心なんて動かせない。


 恋じゃない、性別なんてどうでもいい、好きや尊敬ではとても足りないようなとてつもなく大事で尊重したい感情を、友人や、推している人に持っている。恋も友情も親愛も、ごちゃまぜの大げさなほどの感情を。
 そういう感情を、言葉にしたくてものが書きたいんじゃなかったのか。同じように考える人を救いたくて、書きたいんじゃなかったのか。


 大事な自分の感性を、誰よりも自分が疑っていなかったか。信じきれていたか。
 自分らしく生きたいなんて言いながらも、本当に自分の感性を大事にできていたか。
 世間体に流されて、疑って隠して違うものにしようとはしていなかったか。
 わたしはものを書くために生きたいと願いながら、それを蔑ろにする行動を望むフリをして、結果やっぱりものを書けなくなることや自分の言葉が本物でなくなることを恐れていた。裏切りの裏切りの裏切りだ。自分に対して、嘘ばっかりだ。

 わたしは普通の恋がしたかったわけじゃない。普通の人になりたいと望んでしまっていた。
 ふざけるなよ。普通になりたいなんて、どの口が言うんだ。ものが書けなくなるだろ。
 安心しようとするなよ。
 自分のことすら救えなくて、過去の自分を蔑ろにして、何が人のための物語が書きたいだ。


**


 自分の夢を持つこと、叶えたいと願うこと、努力すること。
 まだ捨てられるものはいくらでもある。
 今回の推しさんの姿を見て、たくさん泣く中で、そう思った。
 捨てたことに対する後悔を怖がるな。
 あんなふうに泣く人の前で、今の自分でいて恥ずかしくないのか。努力も選択もまだまだできる。自分を信じることだって。もっともっと、できることはあるのに。


 いつか納得できる日が、自分も「普通」だったんだと思う日が来るのかもしれない。今書いたことが、全部自己完結の思い込みだと、笑って拍子抜けしてしまう日がくるのかもしれない。
 でもそれまでは、この日、この人を見て感じたことがあるなら、自分を信じていたい。
 ”だからそれを、恋と呼ばないでほしい”。名前をつけないでほしい。
 その言葉を、誰よりも自分に、向かって言いたい。


**


 会場の片隅で、一度も顔を上げられなかったこと、目をぎゅっとつむりながらも、まぶたから透ける、推しさんの子どもの頃の写真を投影する光がまぶしかったことを、忘れないと思う。悔しいと引き結んで歯を立てた唇も、マスクの内側が涙でぐしゃぐしゃに濡れて気持ち悪い感覚も。
 もう全てどうでもいい。
 大好きな漫画のフレーズが、頭の中を回り出している。「後悔は試合が終わってからクソほどする」。
 全部全部やって、無駄だった、何も結果が出なかったとしてもそれでいい。
 人生は一度きり、挑戦できるのも一度きり、そして「後悔できるのも一度きり」。
 何も悔やまない、悔しい思いをしない人生より、こうなりたかったもっとこれができていればああいうことができていたらと、死ぬ間際に思いたい。小説なんか書かずにもっと仕事に集中していたら、他のことに挑戦していたら、人と生きていくことに固執できていたら。
 わたしの推している人は確かに芸能人だし本当にとてつもない覚悟の人だけれど、普通に生きる道だってあった、とても普通の人だった。一度きりの30年の中で、いろんな思いや悔しさを抱えてそこに立ってくれている。
 わたしもこの人に胸を張れる自分でありたい。この人を好きになったのだったら、絶対に恥ずかしくないよう、自分の人生にたくさんの後悔を作っていきたい。




****


 ここからは余談です。みんな、人は泣き続けたら倒れるんだよ。気をつけようね。

 イベント当日に泣いて、夜中に友人が寝ている隣でボロボロ泣いて、翌日一人で駅のホームで泣いて、別の友人と会っても泣いた。帰りの新幹線では、二時間半泣き続けていた。当然家に着いても泣いた。
 翌朝は常に視界に涙をためたまま支度をして、職場の最寄駅で泣いて、職場に着いた途端トイレで泣いた。
 そんなことをしていたら、突然貧血を起こして倒れた。3時間、職場で横にならせてもらい、それでも回復せず病院に行ったら、「迷走神経反射という、ストレスがかかったりすると急激に血圧が低下する症状が起こっていたようです。倒れる直前に、何かストレスの感じることをしていませんでしたか?」と言われた。
 まさか推しのイベントで気づかされたことについてずっと考えて泣きまくっていたとは言えず、よくわかりませんが問題ないならよかったですと答えた。嘘をつきたくないといったそばから、早速ついた嘘だ。
 上司にも連絡を入れたら、仕事のストレスで倒れたのだと思われて本当に申し訳なかった。仕事は全く問題ないですと言うのが精いっぱいだった。

 仕事では、そろそろ来年の異動希望を聞かれる。毎年恒例のイベントだ。
 結婚をしないで生きていく可能性があると考えていたわたしは、進路に迷っていた。仕事におけるキャリア形成。でも今回で、迷いが晴れた。
 仕事は捨てていいものの一つ。
 変な目で見られても、叶うわけないと、“趣味”のために舐めたことを言うなと思われてもいい。それも、捨てていいものの一つだ。
 小説が書きたいです。なのでそのための時間が取れる配属がいいです。
 仕事での道を閉ざすことになるかもしれない。小説なんてさっさとやめて、もっと早くから仕事に集中していればと後悔するかもしれない。
 それでいい。いっぱい後悔をするための人生にしよう。一度しかできない後悔をたくさんしよう。
 自分に嘘だけは、つかないようにして。